【コラム】建築に関わる人の視点や想いを伝えるコラムや、スキマ時間にお楽しみいただけるエッセイ、インタビューを紹介します。

2026.10.30

なにが、建築家をつくるのか──第1回 MARU。architecture 高野洋平・森田祥子(前編)

サムネイル

建築人を豊かにすることを目指すA-magazineでは、新しい連載「なにが、建築家をつくるのか」をスタートします。完成した作品そのものではなく、一人の建築家がどのようにつくられてきたのかに焦点を当てる企画です。第1回にご登場いただくのは、建築家ユニット、MARU。architecture(マル・アーキテクチャ)の高野洋平(たかの・ようへい)さんと森田祥子(もりた・さちこ)さん。松原市民松原図書館や土佐市の複合文化施設「つなーで」など、プロポーザル(自治体などが設計者を選ぶために提案を募る競技)を勝ち抜いて数々の公共建築を手掛けてきたお二人ですが、学生時代には二人とも、建築家になる自分をイメージできていなかったそう。前編では、学生時代の経験から独立してユニットを組むまでのお話を伺います。

 


森田祥子さん(左)と、高野洋平さん(右)

 

──まずは学生時代のお話から伺います。当時は将来どのような建築家になりたいと考えていましたか?

 

森田 建築家に憧れて建築学科に入ったものの、自分が本当に独立して建築家としてやっていけるのかということは、全くのノーイメージでした。設計課題も出来の良い方ではなくて。私は早稲田大学の古谷誠章(ふるや・のぶあき)さんの研究室出身で、学生時代はずっと古谷さんの事務所のNASCAに、所員かというくらい身を浸していたんですね。それまで大学の先生だと思っていた人が、建築家として、自分とそんなに変わらないように目の前で模型をつくったり、スケッチを描いたり、手書きで図面を引いたりしている。建築ってこういうふうにできていくんだな、というのを間近で眺めることで、ようやく「建築家」というものが何なのか、リアリティを少しつかむことができたように思います。

 

高野 僕はそもそも、本当に設計に進むかどうかも迷っていました。高校は文系でしたし、大学に入ってから理転したので、ほかの建築家とはだいぶ経路が違うかもしれません。大学院はまちづくり系の研究室で、学生の頃はそこまで設計にハマってはいませんでした。ただ、組織設計事務所の佐藤総合計画でアルバイトをしていて、それがすごく面白かったんです。学生なのに、いろいろなことを任せてもらえたので。

 

──お二人とも学生のうちから実務の現場に触れていたんですね。建築以外に力を入れていたことはありますか。

 

森田 私は学部生のとき、かなり本格的な武道系のサークルに入っていました。週3で道場に通って、週2で課題の締め切りが来る。朝から授業に出て、夕方からサークルで2、3時間体を動かして、そのまま徹夜で課題をやる。そんな生活を繰り返していました。今では考えられない体力ですね。

 

高野 僕は研究室の活動が研究メインだったので、修士のときは本をよく読んでいました。思想とか哲学とか社会学とか、いわゆる建築の本ではないものが中心でしたね。

 

──大学院を出て、就職先を選ぶことになります。高野さんは佐藤総合計画に入られましたが、アルバイト先にそのまま、という形だったのでしょうか。

 

高野 そうですね。役員の方から「来ないか」と言われて。あまり設計をやるつもりがなかったので、就職の面接には、学生のときのドレッドヘアのままで行ったんです。ドレッドでも取るなら入ってもいいかな、くらいの気持ちでした(笑)。

 

森田 当時の佐藤総合計画は、割とチャレンジングな事務所でしたから。……実は私も、新卒で佐藤総合計画に入っているんです。1年半で辞めていて、ホームページのプロフィールには書いていないのですが。

 

──大学院からそのままNASCAに入る選択はしなかったんですね。

 

森田 はい。学部から早稲田で、大学院も古谷研で、そのままNASCAとなると、ずっと同じ価値観に浸ることになってしまう。それを避けたかったのが一つ。それから周りの友達がみな就活をしていて、私もした方がいいのかなと流された部分もあります。社会人になると、転職も当たり前の選択肢になりますが、当時は大学受験と同じような気持ちで、一斉に就職試験を受けて、どこかに行かなければいけない、という気持ちになっていました。

 

──その中で、就職先はどのような基準で選ばれたのでしょうか。建築家個人が主宰する小規模なアトリエか、大規模な組織設計事務所か、というのは学生も迷うところだと思います。

 

森田 まずゼネコンは選択肢から外しました。施工が母体の会社のインハウスの設計者となると、自由度が低い印象があったんです。それから、就職戦線に参加したくなってしまったので、アトリエは一度除外しました。すると組織設計事務所から選ぶことになりますが、その中でも、アトリエから生まれた事務所と、組織から生まれた事務所とでは、カラーが違うな、となんとなく思っていました。アトリエ出身系の事務所には「社員一人ひとりが建築家」と謳っている会社がいくつかあって、集団としてどうあるかを重視する事務所とは、同じような規模でもスタンスがまったく違う。それで、アトリエ出身系の組織に絞って就活をして、佐藤総合計画に受かったという感じです。

 

 

──実際に入ってみて、いかがでしたか。高野さんは10年、森田さんは1年半と、在籍期間がずいぶん違います。

 

森田 NASCAでは修士のときに、古谷研と共同で出した小学校のプロポーザルが取れて、1年以上をほぼ所員のように過ごしていたんですね。市役所との打ち合わせに並んで座ってメモを取るところから、実施設計まで。学生なのに研修も一切なく、いきなり最前線に放り込まれていたんです。それに比べると、就職してからの1年は、正直物足りなさを感じてしまいました。大きな組織の中で1年目にできることは少ないですし、まずは研修を受けて少しずつ実務を覚えて、先輩のお手伝いから始めるという、ある意味で守られた環境で教育される。設計になるかどうかわからない企画設計や、「この敷地にどのくらいの面積が建ちますか」といった小さな提案をたくさんつくってはいたのですが、実際にものをつくる生々しさから少し離れてしまった感覚があって。最前線にいた自分としては、もっと自分自身がつくることにダイレクトに関わって、責任を持てる状態にいたいと思ってしまって、2年目に一級建築士を取って退社を決めました。

 

高野 佐藤総合計画は公共建築のプロポーザルがすごく多い事務所で、僕は在籍期間中、とにかくプロポーザルに取り組みました。公共の文化施設、図書館のような建築が多かったです。プロポーザル専門部隊があるわけではなく、プロポーザルを取れなかったら仕事がなくなるので、出し続けるしかない。基本設計と現場とプロポーザルを、同じ時期に全部やる、という感じで鍛えられました。なかなかプロポーザルが取れなくて、仕事がない時期もありましたね。

 

──組織で働いた経験で、独立した今も生きていると感じることはありますか。

 

高野 プロジェクトの進め方はすごく勉強になりましたし、公共施設をいろいろやっていたので、その知識は今も生きています。プロジェクトの予算の組み立ても経験しましたが、自分の会社での予算管理とは少し違いますね。ゼネコンと共同で設計するプロジェクトもあって、社会的な組織がどう動いているのかを知れたのも大きかった。幅広い仕事をさせていただいていた一方で、自分としては設計の解像度を上げていくことにもっと時間を使いたいなという思いはありました。

 

森田 私はアトリエと組織の両方を見たことが、結果的に良かったと思っています。アトリエだけで修業して独立した人は、組織に対して変な憧れをもってしまいがちです。しっかりしたマニュアルや法規のチェック体制、設計教育がしっかりしている、といった誤解があって。でもアトリエも組織も、実はそんなに変わらないんですよ。大きなプロジェクトでも、会社の中で関わる人数は同じチームの4、5人だったりして、アトリエのスタッフの人数とそう変わらない。その小さなチームがたくさんあるのが組織であって、設計という行為そのものには、大きな差がない。それを知れたのは大きかったですね。その経験が今、組織やゼネコンの人たちと協働するときも、お互いの状況を共有しながら、抵抗なくできていることにつながっているかな、という気がします。

 

──森田さんは佐藤総合計画を辞めて、NASCAへ戻ることになります。そして同じ年に、ご自身の事務所を立ち上げる。どのような経緯だったのでしょうか。

 

森田 少し複雑なのですが。NASCAには1年いたから、当初は違うアトリエに就職しよう、と思っていました。ただ、退社の挨拶をしに古谷さんに会いに行ったら、たまたま古谷研とNASCAで取り組んでいたプロポーザルの話があって誘っていただいたんです。時間もあったので打ち合わせに参加したら、プロポーザルが取れてしまって、所員として取り組むのも面白そうだなと思って。ただ、そのままNASCAの所員になると学生の延長になってしまうと思い、NASCAとはプロジェクト契約を結び、同時に自分でMARU。architectureを立ち上げました。それが2010年です。

 

2019年より入居している事務所。鉄骨造の建物を改修して使用している

 

──独立は、退社時点で決めていたことだったんですか。

森田 佐藤総合計画を辞めてアトリエの世界に戻ろうと思ったときに、その先はもう独立するしかないだろう、という覚悟はありました。ただ、次のアトリエに何年か勤めてからのつもりだったので、そんなにすぐとは思っていませんでした。立ち上げただけで、仕事があったわけではないんですけどね。

 

──事務所の経営は、どのように学ばれたのでしょう。

 

森田 設計事務所と名乗ってみたものの、仕事の取り方も、設計料の決め方も、まったくわかりませんでした。それで、少し上の先輩たちの飲み会に行きまくる、ということをやっていました。藤村龍至(ふじむら・りゅうじ)さんたちが学生時代から定期的に開いていた同世代の会があって、若手の建築家として名前が出始めていた人たちが集まっていたんです。古谷研の先輩たちも参加していたので、その伝手をたどって、実際に独立している人たちがどのように事務所を経営しているのかを聞きに行っていました。「設計料ってどうやって決めているんですか」「どうやって工事業者を探してくるんですか」「納まりって、どう調べればいいんですか」って。何もわからなくて、本当にそういう基礎的なことを、聞いて回っていました。

 

──飲み会で(笑)。

 

森田 はい、潜り込んで(笑)。当時30歳前後の若手で、独立したての人から、学生の頃から文章を発表して名前が出ていた人まで、いろいろでした。その中には「本当に事務所をやっていけるのか」と悩んでいる人もいれば、お金がないからとりあえずゼネコンに行こうか、という人も混ざっていて、その人生の迷い方を目の当たりにでき、ものすごく影響を受けました。

 

──その頃、高野さんは佐藤総合計画で第一線にいらっしゃった。会社を辞めて森田さんと合流するという判断は、どのようにされたのでしょうか。

 

高野 割と好きにやらせてもらっていましたし、そのまま会社に残って上を目指す道も、なくはなかったと思います。ただ、残るならトップになるつもりでやらなければ意味がないし、すごく時間がかかる。そして、その道を選ぶなら、腹を決めて長くやり切る覚悟が要る。もう一つは、みんなで建築を考えていける集団をつくりたいという思いがありました。会社では、若手社員と建築の話をする集まりをつくっていたんです。建築が好きで入ってきた仲間が、経験を積むほど話題が仕事の進め方や社内のプロジェクトの話に寄っていく。それ自体は組織として健全なのだと思います。自分の望む環境は、自分でつくるしかないのかなと思うようになりました。伊東豊雄(いとう・とよお)さんの事務所のようなあり方に憧れていたので、みんなでいろいろアイデアを出して、面白いものをつくっていける集団をつくっていきたかったのですが。

 

 

森田 私もその集まりに通っていたんですよ。2010年頃は、ゼネコンが海外の著名な建築家を呼んでデザイン監修を依頼したり、ハウスメーカーが建築家と組んで住宅のシリーズをつくったりと、大きな会社が新しい動きを見せていた時期です。組織設計事務所を内側から変えることにチャレンジするのもいいんじゃない、という話もしていました。でも、それにはあと15年、20年かかるし、設計から離れて、経営の方に行ってしまう。それは確かに面白くないよね、と。

 

高野 森田がNASCAへ戻ったことで、古谷さんと会う機会も増えていて、建築家という存在が身近になっていた面もありますね。辞めるなら今だなと、退職して合流したのが2013年です。

 


 

学生時代、自分がどんな建築家になれるのかは「ノーイメージ」だったという森田さんと、設計に進むかどうかも迷っていたという高野さん。後編では、公共建築のプロポーザルに挑み続けた日々と、お二人が目指す建築像、そして建築を仕事にし続けるために大切にしていることを伺います。

 

[後編は2026年11月12日公開予定]

(企画・文:ロンロ・ボナペティ)


MARU。architecture

 

https://maruarchi.com/

 

高野洋平(たかの・ようへい)|一級建築士・博士(工学)

 

1979年愛知県名古屋市生まれ/2001年名城大学卒業/2003年千葉大学大学院修了/2003〜2013年佐藤総合計画/2013年よりMARU。architecture共同主宰/2013〜2016年千葉大学大学院博士後期課程/2014年より伊東建築塾 講師・プロジェクトメンバー/現在、千葉大学大学院工学研究院准教授、京都大学非常勤講師、高知工科大学客員教授

 

森田祥子(もりた・さちこ)|一級建築士

 

1982年茨城県つくば市生まれ/2008年早稲田大学大学院修了/2010〜2013年NASCA/2010年MARU。architecture設立、2013年より共同主宰/現在、日本大学大学院非常勤講師

Tag