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2025.12.25
人生を豊かにする建築の見方──第5回 時間の中の建築 建築の歴史、都市の歴史、建物の歴史などを知る 水谷元
建築の見方を学ぶ連載、「人生を豊かにする建築の見方」の第5回をお届けします。案内人は「建築を楽しめるようになると人生が豊かになる」と語る建築家の水谷元(みずたに・はじめ)さん。今回は、建築がどのような時間の流れの中でつくられてきたのかを見る視点について書いていただきました。
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建築は総合芸術と言われることがあります。その理由はギリシャ時代に遡ります。近代に入る以前、近世、中世、古代は封建主義の時代です。皇帝や国王が実権を握る時代にその力を誇示するために、建築はメディアとしての役割を担っていたと言われています。官公庁の施設や宮殿や神殿などを、当時の最新の技術と芸術で荘厳に飾り立てることによって封建を維持していたのです。実権を握る人物は神話に登場する人物や神話そのものをモチーフとして用い、建築に再現し、空間を通して市民に体現させました。故に建築家は建物の構造や技術だけでなく、文化芸術や哲学に精通していなければなりませんでした。建築が総合芸術と言われる所以です。
「人生を豊かにする建築の見方──第1回 建築を見る楽しさとは?」でも少し触れましたが、現代ではパリ市民にとって拠り所とされるノートルダム大聖堂も、かつては王権と結びついた強力な権力を持っていたカトリック教会によって建設されたものです。まるで、そこに神や天国が本当に存在しているかのような装飾や空間は意図して市民をひれ伏せさせるために作られたものでした。しかし、フランス革命後に教会財産は国有化され、今では民主主義と自由の象徴として市民の胸に刻まれています。
産業革命が起こり、封建時代が終わりを迎えると建築の役割が変わっていきます。この時代は現代の「建築」という認識というよりも、道具としての製造施設や労働者の管理施設という認識の方が正しいのかもしれません。産業革命による技術革新により石やレンガや木材に代わり、精錬技術が発達した鉄の大量生産が進み、大規模な施設の建設に利用されはじめます。同時に大量の労働者を生み出した産業革命は、地方から出稼ぎにきた労働者を管理するための施設も必要としました。近代的な集合住宅の誕生です。
1851年のパリ万博で発表されたジョセフ・パクストンの設計による「The Crystal Palace(水晶宮)」の登場などをきっかけに、工業製品を用いた建物が芸術性を獲得し、大文字の「建築」として認知されはじめます。鉄やコンクリートを用いた建築といえば、フランスのオーギュスト・ペレが有名ですが、古典建築の意匠と当時の最新の技術を融合した建築を続々と発表します。1923年に竣工した「ル・ランシーのノートルダム教会」が代表作として知られていますが、なんとここでもカトリックの教会です。
封建主義から民主主義へ。同時に中央集権の力は弱まり、資本主義が発達していきます。「建築」は市民活動の基盤を支える公共施設や大規模な社屋などに対象を広げていきました。しかし、専用住宅はそうではありませんでした。あくまでも専用住宅は個人の所有物で、作品として誰もが親しめるものではありません。しかし、ル・コルビジェは資本主義を味方に付け、コルビジェの発信するモダニズムの思想に触れたチャーチ夫人やサヴォア夫妻などの実業家たちの個人住宅や別荘を次々と発表します。カメラと写真の登場や印刷技術の向上により、それらは雑誌を通して認知されていきます。
実は現代に入ってからも特にアメリカでは「住宅は建築ではない」と言われていました。1982年にアメリカで開催された建築の国際会議「P3会議」に日本を代表する建築家として磯崎新が招待され、その際に当時若手だった伊東豊雄と安藤忠雄を招集しました。しかし、小規模な住宅しかまだ実績のない2人の建築家は「批評に値しない」と失笑されたそうです。私たち建築家が今では自然に手に取っている雑誌『新建築 住宅特集』も、その名の通り『新建築』で年に2回だけ組まれていた特集で、1986年より月刊誌として独立しました。世界には様々な名住宅建築が点在していますが、世界的に住宅建築が評価されるようになったのは、日本人建築家や日本の専門誌の存在があると言っても過言ではないでしょう。また、2023年に他界した磯崎新は”Emperor of Japanese Architecture”と評され、世界的に多大な功績を残していますが、その功績のひとつとも言えます。
さて、日本には「都市計画がない」と言われることがあります。欧米へ渡航された経験がある方であれば、整然とした街並みに感動した方もいらっしゃるでしょう。大規模な都市計画として有名な都市といえば、パリやバルセロナでしょう。今では想像できませんが、ジョルジュ・オスマンが手掛けた放射線状に大通りが配された美しいパリの街並みは、産業革命によって人口が増え、疫病が広がるような劣悪な衛生環境を解消するために生まれました。同時期にイルデフォンソ・セルダによってバルセロナも大規模な都市計画が行われました。実はこの2人は互いに交流し、意見交換していたことが知られています。
日本に都市計画がないと言われる理由のひとつに、海と山に囲まれているため、大規模な平野が存在していなかったことが挙げられます。地形に沿った道路配置や空間配置を場当たり的に行ってきたためです。しかし、中世から形成された東京の入り組んだ複雑な街並みと空間性は「ひだ」「しわ」「奥」という言語を用いて解釈した槇文彦の『見えがくれする都市』(1980年)という名著を生み出しました。「最後のモダニストのひとり」と称された槇文彦の洗練されたディテールや空間の裏には、日本独自の都市空間体験があるのです。
「都市計画がない」と言われる日本ですが、札幌は明治時代の開拓によって大規模に計画された都市です。また中世から古代では、中国の長安を参考にして計画された平安京(京都)のように、碁盤の目状に区画された整然とした街並みが例外的に形成されています。また、1923年に発生した関東大震災により大規模な被害を受けた東京の墨田区は、後藤新平がバルセロナを参考に都市計画(帝都復興計画)を行い復興したもので、こちらも碁盤の目状に区画が形成されています。どちらかというと下町のイメージの強い墨田区ですが、実は日本でもっとも近代的な都市計画が行われた歴史がある場所です。

都市計画や街の成り立ちは建築にも大きな影響を与えますが、ニューヨークの厳格なマンハッタングリッドは、その厳格さ故にあらゆる人種や文化など多様性を受けいれる寛容さを持っています。1930年代に建設されたクライスラー・ビルディングやエンパイア・ステート・ビルディングなどの摩天楼をはじめ、資本の原理を推進力に様々な建築を現代でも生み出し続けています。
ぜひ、歴史に思いを馳せながら地図アプリケーションを使って、それぞれの都市を俯瞰的に比較して楽しんでみてください。
私たちの現在の暮らしや生活は突然に生まれたわけではなく、先人の積み重ねの上に成り立っています。また、歴史は常に前向きなことばかりではなく、目を背けたくなるような事も多くあることは事実です。街は歴史の積層、建築を地層の一部と捉えれば、計画や設計の実務の場面で迷った時こそ、歴史と向き合いながら街を捉えようとする真摯な態度が必要となるのです。新しい表現や体験を生み出そうとする時こそ、過去にヒントが隠されています。
(企画・編集:ロンロ・ボナペティ)
水谷元(みずたに・はじめ)
1981年兵庫県神戸市生まれ/福岡県福岡市の能古島育ち/九州産業大学にて森岡侑士に師事し、2004年に中退/2011年よりatelierHUGE主宰、2020年より水谷元建築都市設計室/著書に『現在知 Vol.1 郊外その危機と再生』(共著:NHK出版)、『地方で建築を仕事にする』(共著:学芸出版)、『臨海住宅地の誕生』(編集協力:新建築社)、日本建築学会2018年-2019年『建築雑誌』編集委員、九州大学『都市建築コロキウム』2020年前期非常勤講師


