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コラム

2025.05.29

建築設計と働く喜び──第3回 鹿島建設 風間 健

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建築人を豊かにすることを目指すA-magazineが、建築設計者が日々の業務に見出す働く喜びを紹介するシリーズ。第3回は、大手ゼネコン、鹿島建設で大規模プロジェクトの設計に従事する風間健さんに寄稿していただきました。

 

 

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風間健と申します。ゼネコン鹿島建設の建築設計部に所属し、現在は都内の超高層ビルの設計に従事しています。

 

1.想像の世界から「現物主義」へ

 

学生時代、熱心に打ち込んだのは作家研究でした。みながワイワイと実施プロジェクトに取り組む中、研究室の片隅でコツコツ論文を書く日々を送っていました。対象とした作家はジョン・ヘイダックという人。アンビルト・アーキテクトとして知られ、実作がほぼ存在しない変わった建築家でした。

建物をつくっていないので、作家論の王道である現地調査は実施しようもなく、彼の建築は、想像の中でのみ体験できました。まさしくドローイングやスケッチそれ自体が「建築作品」だったのです。

そんな理論と想像の世界に浸っていたような私が、その対極ともいえる「現物主義」のゼネコンに足を踏み入れたことについては、今なお合理的な説明ができずにいます。漠然と、対極的な環境への憧れがあったのかもしれません。

でも、ひとまず約10年、この環境で設計を続けており、その日常には「喜び」と呼べるひとときがあることも確かです。この場を借りて、少しだけお伝えできればと思います。

 

 

2.ゼネコンにおけるプロの設計者とは

 

さて、ゼネコンの設計者というのは、本邦の建築設計業界では比較的特殊な立場であると私は考えています。仕事は「設計施工一貫」が大前提です。最上流の企画・開発から竣工後の維持管理までのすべてを自社で請負うこともあります。設計者は、このサプライチェーンの中でプロフェッショナルにふるまい、建物の生産活動に寄与することが求められます。

堅苦しい言い方を抜きにすれば、「建ててナンボの設計」をしなければならない、ということです。アンビルト・アーキテクトを研究していた自分としては、建てることを前提としない設計案の価値も知るところですが、ゼネコンに所属する限り、少なくとも通常業務レベルでは、建設にコミットする姿勢なくして、プロとしての評価は得られません。

加えてゼネコンには、本当にさまざまな背景と専門をもつ人が所属していて、長いプロジェクトの中で色々なかたちで関わり合います。本業を担う現場マンはもちろん、営業・開発や品質技術部署、設計部の中でも構造・設備に加え、デジタルや性能設計の専門家など……。多くの人の関与の中で、はっきり言って設計案および設計者は「もみくちゃ」にされます。コストや工期に対する目もシビアです。当然品質に対する手抜かりは許されず、それらは得てして意匠の自由を制限します。

 

 

3.米国で目の当たりにした「リアル」

 

話は変わりますが、何年か前、私はアメリカの地方都市にある支社出向していました。そこで勤務していたのはローカルな設計施工会社で、プロジェクトの大半は郊外の工場、さらにその多くは改修案件でした。その会社のシステムはこういった仕事にかなり最適化されており、設計業務もきわめて効率的に進むようにメソッド化されていました。そこに、サンクコストも厭わず何案も検討を重ねる類のスタディ、いわゆる狭義のデザイン行為が入り込む隙は一切ないように、(当時の私には)見えました。

リアルで厳しい設計ビジネスの世界でした。学生時代や本社勤務時代に当たり前だと思っていたことが、いかに恵まれていたかを痛感したのでした。

 

 

4.「もみくちゃ」にされることを受け入れる

 

数年の米国勤務を経て、再び本社配属となった私は、そんな経験もあり、それはもう気張っていました。担当したプロジェクトは都心・高層・新築。米国地方都市時代では願いもしないようなプロジェクトです。

「この恵まれた立場を絶対に無駄にしちゃいけない。これは俺の仕事だ」。そんな意気込みで頑張ってみたものの、どうにも空回りしていると気づくのにそんなに時間はかかりませんでした。早い話が、「もみくちゃ」の力学は、一介の設計担当者が踏ん張ったところでどうしようもなかったのです。

最初に考案したそれなりに尖った意匠や仕様は、色々な理由で揉まれて、揉まれて、最後には全然違うものになっていきました。

 

今振り返って、最初のコンセプトのまま建物が出来ていたらと思うと、ちょっと恐ろしい。いや、もしかしたらそれなりに新規な建築に仕上がったかもしれません。ですが、クライアントが多額の投資を行い、街並みの一角を占める建物として、多角的な評価に耐えるものになっていた可能性は薄いでしょう。それ以上に、もし私があらゆる関与者を「デザインの敵」の如く見做し、いちいち「もみくちゃ」に抗っていたら、人びとの気持ちはみるみる離れていったことでしょう。「風間さんのこだわりらしいから、深く考えても仕方ないね。放っておこう」、と。

 

 

5.想像から実体へ:ポジティブ・フィードバックの端緒

 

最終的な、「全然違うものになった」建物には、少なくともそんな独りよがりなムードはないと言えました。施主の要望、施工者や協業者の工夫、その他さまざまな立場の人びとからの助言やヒント……それらが積み重なってひとつの建物になったという実感がありました。

設計者の預り知らぬところで「こんなに深く悩み、苦労してくれていたのか!」と感動を覚えることもありました。

 

たとえ大規模なプロジェクトでも、設計のはじまりは少人数のチームです。この時点での建築とは、極論、設計者の想像の中に漂っているだけの非実体に過ぎません。それがいつしか「もみくちゃ」にされる中で色んな人を巻き込み、最終的には数十人・数百人が「私の仕事」と呼ぶ、建物という揺るぎない実体になっていく。バタフライエフェクトのような、というと少々大袈裟かもしれませんが、ともかくこんな壮大なポジティブ・フィードバックの端緒を担えるというのは、設計施工の醍醐味以外の何物でもありません。

 

先述のプロジェクトでも、現場に通い、鉄骨や外装が次々施工されていくのを目にして、もはやこの建築は私という設計者から「独り立ち」してしまった、と感じるタイミングがありました。その時に覚えたのが疎外感や焦りではなく、深い効力感だったことに、自分でもちょっと驚いたものです。

この瞬間こそが、「建築設計の喜び」と呼べるひとときだったのかもしれません。もし「俺の仕事なのに」という態度に固執していたら、気づくことはできなかったでしょう。

 

 

6.「市井の建築」を目指して

 

今後状況が変わる可能性はありますが、ゼネコン設計部が担当する工事は今でも民間事業が大半で、かつ、オフィス・商業・工場といった、ある程度「型」が確立された用途が中心です(それが尻込みするほど大規模だったり、高度に複合化されている場合もありますが)。文化の最前衛に切り込むような与件は少ないかもしれません。どちらかといえば、ふつうの街角に建ち、多くの利用者を収容して、建築を意識しない多数の人びとと関わり合いになる「市井の建築」と呼ぶべきものといえます。

私は、そんな「市井の建築」を、ひとつひとつ丹念に設計して、ちょっとでも景色が良質になるように頑張るというのが、ゼネコン設計者のできる貢献だと考えています。

 

「もみくちゃにされる設計者」―――実務の世界に足を踏み入れた時、超高層ビルのような大規模建築の設計者というのは、もっと毅然とした存在だと思っていたので、この姿はまことに想定外です。しかし、案外目指すべき建築には近道なのかもしれません。

 

まだまだ模索の途中ですが、今日も「もみくちゃ」にされに、設計施工のダイナミズムに飛び込んでいきます。

 

(企画・編集:ロンロ・ボナペティ)

 

風間 健

1989年                   千葉県生まれ

2012年                   早稲田大学建築学科卒業

2014年                   同大学大学院修了

2014年~                鹿島建設株式会社 建築設計本部にて勤務

2018年~2020年   同社米国法人にて勤務

現在                        同社 建築設計本部

 

米国滞在時に、建築見学記を発信(kezama|note

新建築論考コンペティション2021 2等

自宅「A Round and Around」(共同設計:伯耆原洋太 / HAMS and, Studio, 『新建築住宅特集』  2024年6月号) など

 

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